お詫びと訂正

DANGO母です。


昨日、こちらのブログで「一太郎やーい」の話を書きました。
たまたま今日の四国新聞「香川の都市伝説」というコーナーで「一太郎やーい」
銅像のことが書かれていたので読んでみたら、私はずいぶんと勘違いをしていた模様です。


以下は四国新聞の記事です。


一太郎やぁい像(多度津町西浜)
   軍国美談の幻をたどる


 軍国美談というジャンルの物語がもてはやされたのは70年前の太平洋戦争以前のことだ。
 たとえば爆弾三勇士のような決死行が流行歌、映画、演劇、講談、小説となって人々の口端に上ったが、当時のもっとも有名な主人公のモニュメントが多度津町にある。
 県立桃陵講演の「一太郎やぁい」像だ。物語は1918(大正7)年の国定教科書に掲載され、日本中に知れ渡った。
 日露戦争中の1904(明治37)年8月28日、旅順攻囲戦への補充兵員を運ぶ船を見送る多度津港での出来事だ。
 人垣をかき分けて最前列に出た老女が船に向かって「一太郎やぁい。その船に乗っているなら鉄砲をあげろ」と叫んだ。甲板で一人の兵士が鉄砲をあげる。老女が再び「家のことは心配するな。天子様によくご奉公するだよ」と叫び、その場にへたり込んだ。聞けば5里の道を夜通し歩いてきたと言い、周囲の涙を誘った−軍国の母の愛に全国民が感涙を流したが、実は思いがけない結末が待っていた。
 教科書掲載の2年後、すでに死没と思われた母子が三豊郡豊田村(現観音寺市)で生存し、しかも赤貧にあえいでいるという朝日新聞の特ダネで日本中が大騒ぎになった。見出しは「今は廃兵の勇士が悲惨な生活」。
 たちまち日本中から義えん金が集められ、母子の生活を支える講演会が生まれ、ついには母親の銅像まで建った。1931(昭和6)年の除幕式には多くの来賓とともに本人岡田カメと息子梶太郎ほか親族も参列した。
 名前の変化はカジタロウをカズタロウと聞き違え、さらに漢字で「一」と書いたためだった。物語が過度に潤色されていたことが判明するのは戦後のことだ。
 敗戦後、軍国美談は封印され、記念碑も多くは撤去されたが、「一太郎やぁい」は母性愛の象徴として生きながらえた。
 戦争に翻弄された母は今日も港に手を振り続けている。(明石安哲)


とのことでした。
銅像の写真の横には「どんな時代でも息子に手を振り続ける『一太郎やぁい』像」とある。
この記事を見る限り、どうやら私は「一太郎やぁい」の銅像の話を「岸壁の母」の歌と勘違いしていたようです。
勘違いしてからかれこれ40年ほど時間が経っています。
間違いを正してくれてありがとう、四国新聞
遠くにいる息子に手を振る気持ちは同じなんだけどね、てへへ。
先ずはお詫びと訂正まで。